目標管理制度についてのヤバイ話


エンパワーという言葉の意味についての個人的な憤りを吐露したところこのBlogにしては好評を頂いているようなのでこれについて関わることをまたつらつら書き連ねてみたいと思います。

ただ、最近思考が上手くまとまらないので、文章が乱れるかもしれませんが……その場合しばらくしてから改修が入ると思いますので読み流してください。


八方破れ


……とはいえこの話は必ずしも「目標管理制度というコンセプトの問題」ではないのです。

むしろ「日本型経営」というものが「無駄に増長している」事の証左でもあり、それが日本のITによる生産性向上を阻んでいる大きな要素ではないかとも思えます。

(NewsPicksの記事「バブル期のIT投資」「いくらIT投資効果が低いと言っても、海外企業の場合は必ずプラスに出る。それが、日本企業に関しては軒並みマイナス。要するに大金をかけてわざわざIT投資しない方が良かったという結果…」)

つまり「一事が万事」という事で、日本企業(組織)の根源的な文化的な課題かもしれません。


さて、それはどういった事でしょう?

日本には「守破離」(しゅはり)というよい言葉があり何かを修める場合には3つのステップが必要であるとされています。


まずは「守る」
言われた事、今行われている事を「丁寧に守る」事が第一歩です。

次に「破る」各プロセスなどを入れ替えたり、それらに入れるパラメーターを『妥当な範囲』と信じられる範囲で変更してみる事です。

この二つのステップは順序も含めて重要です(離はもういいでしょう、それらの知見から全く新しいものを生み出すことです)。


工作機械などを入れたときに「まずはマニュアルどおり」に扱う、その後に「改造やマニュアルに無い活用」を考えるというステップが必要です。

なぜならば「その制度やシステム」を正しく理解しなければ改造や改変でシステム自体を「破壊・無効化」してしまう事も考えられるからです。

部品や工程の入替といった「変更・改造」は不用意(半可理解)にするべきではありません。

「一目したところいかにもムダ」でも「あえてその並びにしている事で」機械の故障を抑制したり、動作の信頼性などを担保している場合もあるのです。

……と、同時にQWERTYキーボードのように電信時代には意味のある仕組みだったものが、パソコン時代には無意味というものもあります、ここを「理解」して「破離」をする事も必要です。

八方破れの日本型(?)目標管理制度


しかし、日本においては目標管理制度は始めから「日本型(?)」に改造して導入されました(マニュアルどおりに使ってもみずに「日本風に(良い方向に)」改造する事ができる発想は『傲慢』と言えるでしょう)。

その明らかな証拠が「目標管理制度」が「給与と連携している」事です。


目標管理制度はドラッカーの提唱時からあくまでも「企業と個人が合意する」ための制度です。

言うなれば個人側が「私はこの仕事をやりたいと思っている」と意思表示するためのものです……企業側は元々「指示命令」や「ノルマ」という形で意見を表明する事ができたのですから。

そしてこの「企業と個人の目標」は個人と共に「企業側(管理職)も」達成させるために全力を尽くす必要がある「コミット」であると述べられていいます。


これは本質的に目標管理制度の目標は「企業側との共有した目標」であって「個人の成果を現すもの」ではないということです。

そして、初期の提唱時(その後の研究論文だったかな?)から「給与と連動させるべきではない」と述べられています(が、すいません本の名前とか忘れました)。


「考課に使われる目標」という事はこれは「必達目標」にならざるを得ず、多くの企業で『目標管理制度』が単なる「(あえて言うなら少し自己啓発なども掲げられる)ノルマ」になってしまった事からも明らかです。


「目標管理」は『企業側と従業員のコラボレーションツール』であって「考課(成果測定)」の制度ではありません。

(もちろんこれらの過ちは本家の米国でも繰り返されている(ヤバイ経営学でも経営陣が目標を結果判定前に見返すというようなことをやっていると指摘されている)のだろう、特に「給与と結び付けてはいけない」なんていう警鐘が鳴らされたのだから推してしるべしである)


そもそもの提唱理由や「企業側も達成にコミットする」という仕組みを考えれば「考課に使えるはずはない」のです。

どんな仕組みであれ制度であれ、まずは「型通り守る」事が必要なのです。


いきなり「破」れば高度な(ましてや企業に導入する以上巨大な)構造物はいともたやすく崩壊してしまうでしょう。


日本型の目標管理制度


「日本型の目標管理制度」というものがあるとすれば小山昇氏の提唱する「他人じゃなくて自分の過去と比べて鼓舞する」という制度が上げられます、小山氏はドラッカーを読んでいるとは思えないですが鮮やかで無駄のない「目標管理」になっています(ただしドラッカーが示した自由度はありません)。

これは「コミュニケーションや『現場指揮官』としての振る舞い」などを学ぶ暇のない日本の管理職には易しい方法です。

相手との対話で目標を引き出したり、自分達の仕事の意義を説いて会社の期待する仕事を目標に入れてもらうような「ディール」をする必要は無く、相手もわかっている「メインジョブ」の成果を本人の過去と比較して評価し鼓舞するだけでよいからです。


おそらくドラッカーが提唱した制度は日本ではそのままでは機能しなかったでしょう。
これは提唱された仕組みに問題があるのではなく、アメリカ人ならごく自然にする「ディール」が日本人には一種の罪悪(ですぎた事を言いすぎだ)だからです。

「文化の違いを乗り越える工夫」は否定されるべきものではありません。

しかし「安易な変更」は制度自体を無効化(あるいは『害悪』化)してしまいます。

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