「統治」という事への理解度が組織、例えば「企業」の生産性を『変える』それどころか『決定する』と聞けばあなたはどう思うだろうか?

【統治=ルール】


統治につきものなのはルールだ。
しかしこれらはしばしば「お題目」と認識される。

どうだろう?あなたは自社の「存在意義」や「企業の哲学」を(自分の中で解釈した形で)述べられるだろうか?

さらにはその「価値観の定義」や実現について同僚と議論できるだろうか?

【実用的なルールは「広義の教義」】


実用的なルールは「教義」でなくてはならない。

『徹底して広められ』
『行動の方向性を示す』実用的な『価値観』を示すものでなくてはならない。

【日本人は「改宗」しない】


日本人の問題はこういう「教義と統治の関係」に無頓着で、単に「それはそれ(建前)」として認識される。

その結果『価値観』は徹底されず……ということは「隣りの席の人が自分の努力を打ち消す(無効化させる)仕事をしているかも知れない」という事。

使えなくても『放置』される……ということは「ルールはいつまでたっても実用的ツールにならない」。

欧米人はそこが徹底していて、「律する」必要性を『根本的に』理解している。


【合理的な非科学的情熱】



日本人は彼らの宗教を信ずるという「非科学的情熱」は理解しがたいと簡単に考えるが。

実際のところ社会や企業の生産性を高める上でプラスに働いている。

彼らは『律するもの』を尊重しつつ、必要性があれば『改宗』する合理性を持っている。

(追記♯そして宗教側も様々な解釈や工夫で自らのあり方を変える、「会議」で聖典の「異端審査」をする、また「神性についての定義を確認」するなど日本人は逆に「不遜」と思いそうだが、間違えていたのは「人間の解釈」や「文書の真偽」なのだろう。)

一見すればそれは「無節操」に見えるが、実は違う。

彼らは『自分達を律するなにか』をホールドするという点において一貫している(し、ユダヤ→イスラムは教義は異なっても『同じ神』を信仰しているのでハードルが低いというのもあるだろう)。

日本人なら「それはそれ」と誤魔化してしまうだろう。

しかしそれでは「組織」は『律』されない。


カシアス=クレイというボクサーの事例をだそう。

彼は国には屈さず意思を通した(ベトナム戦争兵役拒否)が、神は捨てず『モハメド=アリ』としてイスラムに改宗した。

彼らは律するものへの情熱は絶やさないが、実は宗教自体にも常に冷静な目を持っている。

佐藤優氏の初期の著作に「引退後にムスリムに改宗したロシアの有力者」の話があった。

この有力者は「教義の欠陥(構造的な強度不足)」(たしか神の定義の仕方)を改宗理由に上げていた。政治家である上では「宗教的な基盤」を変えるわけにはいかなかったのだろうが、引退後に『律するもの』を改めたというこの例が鮮やかに記憶に残っている。


『実用性』のある『価値観』の『徹底』がその組織の統治の質を決め、ひいては組織の生産性を『決める』のだ。

なに、組織に神棚を作れと言うのではない、単に「仕事のを律する『実用的な』宗教を作れ」というだけの話だ。
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