本日のオススメ。

大阪府内、主に梅田の居酒屋さんの"本日のおすすめ"を紹介するブログです(黒板の画像は拡大したら値段まで読めるはず!)。季節感のあるブログを目指しますw SNSとかでお探しなら→CampSite mixi FB twitter

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    はじめから無効化した制度を導入した日本企業」で『目標管理制度の導入がイケテナカった』という話をしました。

    とはいえこれは「日本ではよくあるダメパターン」でもあるともお話しました。
    それとは逆に「外国から学べ」を成功した直近の事例『明治維新』の例ではどうでしょう?

    【本質を捉えるまで徹底して学んだ明治】


    明治と「ショーワ」の違いはどこにあるのでしょう?

    まず、様々な事を「丸呑み」で学ぼうとしました。
    そしてそれに対して「ケチケチ」していません。

    日本は幕藩時代から世界各国に留学生を派遣し、実際を「見聞」させようとしました。

    色々な論点はありますが、このときの「留学」は現代のMBA留学のような傍流ではなく、主流の取り組みとして実行されていて、留学してきた人たちが実際に制度設計や行政の主流にかかわっていく事になります。

    留学生とはすこし違いますが「岩倉具視使節団」などは座長の岩倉具視はもちろん、明治の立役者大久保利通もふくまれ「首脳」が直々に見聞を広げに行っています。

    また現代とは違い「留学組」を色眼鏡で見て傍流に追い込むような振る舞いはありません。
    (逆に内向的になりすぎた士族などの反乱には苦しみます)

    【留学組の重用とお雇い外国人制度】


    外国視察(留学)をしてきた人間は政府はおろか陸海軍の首脳もかためています。
    (山県有朋、山本権兵衛という初期の大立物は2人とも「視察旅行」という範囲を超えて海外で学んでいます)

    榎本武揚などは最後は幕府軍の総司令官までやって、北海道独立なんて事までぶちあげた人間でしたが国際法の知見があったため、攻め手の黒田清隆の助命嘆願もあり生存、最終的には明治政府の高官になっています。

    お雇い外国人もこの表を見れば「お金儲けにかかわる」とか「富国強兵に役立つところだけうまくツマミ食いしてやろう」というような安易さはなく、文字通り「すべてを学ぶ」気概があった事がわかります。

    【真髄を学ぶまで学ぶ-明治憲法】


    これは明治政府が動き始めても継続し伊藤 博文も「憲法」を学ぶために、一年以上欧州に滞在し「各国を」回っています。

    この「各国を」というのが重要で......

    「イギリスの圧倒的な憲法(紳士協定(常識)としてみんなが把握しているが、成文が存在しない!!)」
    「ドイツのハードな法律のあり方(逆に大陸法で成文がカタイ)」

    ......などに打ちのめされますが、最終的にはウィーン大学のシュタイン教授に師事を受け「憲法とは国体(歴史)なり」という結論を得て帰国します。

    (シュタイン教授はそれでもつれて帰りたかったようですが高齢でもありそれは叶いませんでした)


    大日本帝国憲法について「知らずに語る」向きが多いのですが、天皇の祝詞(祖先代々への感謝と誓い)から始まるこの憲法は正しく日本的で、穏やかなものです。

    もっとドイツ的で天皇陛下に「皇帝」的強権を与えたいという主張も存在しましたが最終的には「穏やかな憲法」......当時としては世界で類を見ないほど国民の権利を重視した憲法になりました……

    ……その理由は優等生的に「リベラル」を気取ったからではなく、日本が「元々そういう国だったから!!」です!!

    日本の元首である天皇陛下は本来的に「中華的な帝王」ではなく、むしろ民のかまどの逸話などからもわかるように歴史的にも世界的にはめずらしい「国民に寄り添う元首」でした。

    (まあ途中では少し生臭いお方もおられますが、それでもそれは「民をどうこうして云々」というのではなく、あくまでも「権力者内での勢力争い」をしているにすぎません。江戸時代に書かれた落語や、明治になってからの夏目漱石の作品などを見れば日本の「戦前」にも現代につながる自由で明るい空気が充満していた事がわかるでしょう……日本の戦前を叩く人達が言う『天皇独裁の統制国家』は実は「戦中、しかも敗戦前」に現れたパニック(とご聖断による終戦を考えると「緊急避難」)に過ぎません……そもそも灯火管制だとかが必要な「(国際法違反の)空襲多発」なんて状況は敗戦間際だけです)


    ……この憲法のもとで日本は「真の奇跡の成長(昭和をはるかに上回る!!)」を遂げて、「東洋の半文明国」から「世界唯一の有色人種の列強」へと肩を並べる事になりました(これから見れば第二次大戦後の成長は単なる「復興」です)。

    まさに「本質を学び、それを生かした」最大の例が大日本帝国憲法だったのです。


    第二次大戦の結果は「勝敗は兵家の常」という以上のものではありません。
    (しかし日本国が「再び立ち上がる」ことができるのは無形の構築物か国民の中に築かれているからです)

    とはいえ「習い性」だけではなく「真摯に学ぶ」事が出来る知的好奇心のある国柄と歴史が日本にはいくつもあります......もちろんそうでない時期もあるのですが(笑)文字通り「一度でも」学び変革ができた国は少ないのですその力を自覚して、活かしていく必要があるでしょう。


    7321926d.jpg

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    例によってリハビリがてら書きます(文章の乱れについては「しばらくおまちください」)。

    陰謀論のように語られることもある「中央銀行」その起源と役割について簡単に見直して見ましょう。


    中央銀行の起源はイギリス


    近代的な国家の仕組みのことごとくはイギリスから湧き出しています。

    これは歴史の7不思議のひとつと言えるかもしれませんが、「中央銀行制度」もイギリスから始まっています。

    政府に安く金を貸すための機関


    さて、この中央銀行ですがそもそもは何のためにあるか?
    それはズバリ「政府に金を貸すため」です。

    当時のヨーロッパは王様同士が決闘がてらに戦争をするというクレイジーな世界でした。
    例のきらびやかな服装をしたマスケッターや騎士たちを動員するにはすさまじいカネがかかります。
    14051644_1745446599062008_2959042153995830740_n
    画像はこちらのサイトよりお借りしました。

    この「大事業」のカネは運が良ければ王室の金庫からひねり出す事ができましたが、概ねはムリでした。
    そこで商人に頼る事になりますが、これがなかなか難しいのです。

    当然足元を見られて「高い金利」が取られますし、金が返せなければ担保が取られてしまうかもしれません。
    踏み倒したら踏み倒したで貴重な財源を失う事になるかもしれません…経済の混乱や信用力の低下でカネが借りれなくなれば先は短いのです。

    中央銀行は「国債」を発行する事で国の必要な資金を調達し、政府に貸し付ける役割を持って誕生したのです、金利は一般の商人に借りる場合の半分程度でした。

    現代の中央銀行へ


    ちなみに現代では「日本銀行券」を発行できるという『特権』を持つのが中央銀行ですが当時は違いました。

    当時は「資産の分だけ銀行券」を発行できる権利はすべての銀行が持っていた権利だったのです。
    (例えば「UFJ銀行の金3g分の券」という具合です、日本でも当初は民間銀行で紙幣を発行していました)

    後にこの権利は中央銀行に集約されていきました……基軸通貨の確定と同様「交換する上では面倒すぎる(※)」ので徐々に「イギリス中央銀行券」以外は排除されていったのでしょう。

    ※「面倒すぎる」例えば東京で、網走銀行の銀行券をもらうとその銀行の信用力(潰れるかもしれません)を知るのも難しいですし、金に交換するにも不便です。

    かくして「国家の紙幣を印刷する事ができる」中央銀行が生まれました。
    ※当時は今と違って原則的には「金銀」などの貴金属と交換ができる兌換紙幣です。

    現代の中央銀行


    現代の中央銀行も政府から一定の独立を持つように設計されることが多いのです。
    これは紙幣の発行が経済の状況に大きな影響を持つ事が徐々に確認されてきたからです。

    ……が!! 独立は絶対ではありません(※)、理由は以下で述べます。

    ※「独立絶対ではありません」中央銀行は政府の一機関かFRBのように民間銀行の「連邦政府」の体裁を取るケースもありますが、国家の法で定義された役割と特権を持ちます。また紙幣は中央銀行の専権事項ですが日本であれば硬貨は政府発行です、10万円金貨などを大量発行すれば容易に「貨幣発行」をする事ができます。

    現代は「兌換紙幣」ではなく「不換紙幣」です。

    紙幣の印刷量は「金とのバランス」ではなく「国の信用力(果たして何で計れるのか不明です※)とのバランス」という事になっています。

    ※「何で計れるか不明」原則としてみればその国家の「総収入(税収-予算)」と「資産負債のバランス」ということになりますが「将来性」もそこにはかかってきます(将来的に税収が伸びそうなら多小貨幣をすりすぎてもOKなわけです)。

    問題はこの「バランス感覚」で紙幣ばかりが増えて購入する事のできるものがないと、紙幣の価値は下落します※これが「インフレ」で逆に貨幣発行量が少なければ「デフレ」になります。

    いまや日常的に「政治の争点」にもなる『金融緩和ありやなしや?』というのはこの「インフレ・デフレの是非」と深くつながっているのです。

    ※「貨幣の価値は下落します」家庭内総生産が100万円の「長谷中家商品券」が1億円分発行されていても欲しがる人は居ないでしょう、ただし1億円分が300万円で売られていればかろうじて買う人も居るかもしれません(5年くらいは存続すると見込まれるならです)、100万円ならまあトクかなと思う人が居るかもしれませんが、一つの家庭が何年存続するかは謎なわけです。このあたりの価格は「保険」のようにリスクとリターンのバランスで決定されます

    インフレ・デフレを操る『信用力』のダム


    政治家がこの「紙幣のダム」のジャグチを握っていたらどうでしょう?

    「あとちょっと、あとちょっと…」と政策実現に必要な紙幣を印刷してしまうかもしれません(ちなみに紙幣をすった分利益が生まれますこれは『通貨発行益』と呼ばれます)、お金を刷った分丸儲け……になれば良いのですが、他国の人から見ると「国家の信用力が変わらないのにお金を増やした」事になるのでその価値は下落します(※)。

    ※「その価値は下落します」当たり前ですが貨幣の価値はたとえば「ドルに対して」とか「ユーロに対して」とか他国の紙幣との関係で定まります、そして当初は「国内」での影響は無いのですが原料輸入などの時に「円」で購入できる商品の量が減るため、モノの値段は実質的に上がります……例えばうまい棒は「常に10円」ですが2017年昨今は3年前より随分小さくなっています

    日本の例では『狂乱物価』であまりにもインフレが激しいと経済は混乱します……そしてみんながカネを借りて散財しまくるので『バブル』が発生しやすく(※)なります。

    ※「バブルが発生しやすく」200万円のローンを組んで3%のカーローンで車を買ったとしてもインフレ率が10%であれば、翌年には給料は10%程度、車の価格も10%程度増えます(例えば給料は30→33万円、自動車の価格は200→220万円)、ところが「借りてしまった借金の金額」には「インフレ調整」はありませんから 『早く使わないと損!!』という事になります、これが土地などの「投資性のあるモノ」だと…。


    逆にアメリカなどでよく話題になる「FRBはロックフェラーの意を受けた組織」という陰謀論もあります。
    通貨の発行量を減らすとデフレが起こります、逆に物価が下がっていくわけです。

    こうなると『銀行』などの『お金持ち(ロックフェラーは超お金持ちです)』は大きくトクをします。
    (すでに貯めてある莫大なお金で買えるものがどんどんと増えていくからです)

    しかし、デフレ下では経済は大きく減速します、「今使うより、来年使うほうがトク」だからです(うまい棒(10円)もどんどん長くなっていきます)。


    これは「お金持ち」には福音です、しかし「労働者」にとってはどうでしょう?

    インフレではバブルが起きるとは限らないが、デフレで不景気は必然


    インフレ下では借金をしても毎年負担が減っていきましたから月給が30万円でも自動車を買う事ができました。
    デフレ下ではこれが逆になります。

    「自動車を買う事ができない」となると、あなたが自動車会社の社員なら当然給与は下がります、もしかすると失業するかもしれません。

    あなたが自動車会社の社員でなくても、あなたのコンビニにいつも買い物に来ていた人が来なくなるのです。

    誰かの支払いは、誰かの収入なのです。

    かくしてデフレは「デフレ」というだけではなく「不景気」と同時進行してどんどん悪化していくわけです。
    (ただし、あなたのいくばくかの貯金は増える事になります、あなたの貯金額と、その後の労働でどれくらいのものが受け取れる見込みかで微妙にポジションが変わってくるわけです)

    インフレもデフレもスパイラルがあります。
    ただし、結果を見れば「マイルドなインフレが妥当」というのが経済学と歴史の定説となっています。

    インフレ下でのバブルは必ず起こるわけではありません(※)が、デフレ下での不景気は必然だからです。



    この記事のタイトルは「中央銀行はQWERTYキーボードか?」でしたが、本来の役割である「国の借金を安価に済ませる」という役割は現代にも「必須」のもののような気がします。

    「時代遅れな遺物」的な要素は「中央銀行」という大きな作りの中にではなくてもっと細かい制度や文化
    、あるいは逆に社会全体にかかわる課題についての意思決定システム(政治)といった大きなフレームワークの中にありそうです。

    そもそも経済に「借金が必要か?」についてはこちらをご覧ください。
    判断は分かれるところですが、借金(クレジット)による一定の波動(5〜10年)があることで社会が「振られる」事は機会の平等にプラスの働きをしているような気がします(長期変動しかないと下落機に生まれた人は死ぬまでワリを食う事になります)。


    ※「必ず起こるわけではありません」インフレ下だからといって、必ずしもバブルが起きるわけではありません。バブルというのは『値上がり転売』を狙ってある特定の投資に資本が根拠無く集まる事です。例えば銀座の土地で1屬妊咼献優垢鬚垢譴亰100万円儲かるなら1(驚くほど狭いですよ)の土地の価格は1億2000万円で妥当(不動産はだいたい10年で取り返すので100x12x10=12000)なわけです。インフレ率が4%であれば毎年480万円(実際には複利なのでもっと)儲かる事になります。

    これを織り込んだ価格で購入しても「適正」なわけです……が、バブルでは「銀座の土地は毎年倍々ゲームで上がる」というような状況になります(欲しがる人が多いからです)。

    このような状況では「実業」から乖離した価格設定がされるようになります。簡単に「バブル」といいいますが価格上昇は「どこかまでは」適正です「速度がゆっくり」であれば技術の進歩などでそのギャップが埋まりそれよりも儲かる事もあるかもしれません(例えば安価に超高層ビルを建てれるようになるなどです)、こういうケースであれば「バブリーな価格での購入」も『先行投資』と賞賛されるでしょう。

    しかし、好景気の利益が『一つのジャンルに集中する』と大体において『過剰な価格』は現実を大きく超えてしまいます。

    ec03bb16.jpg

    注釈がなげー。

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    目標管理制度についてのヤバイ話


    エンパワーという言葉の意味についての個人的な憤りを吐露したところこのBlogにしては好評を頂いているようなのでこれについて関わることをまたつらつら書き連ねてみたいと思います。

    ただ、最近思考が上手くまとまらないので、文章が乱れるかもしれませんが……その場合しばらくしてから改修が入ると思いますので読み流してください。


    八方破れ


    ……とはいえこの話は必ずしも「目標管理制度というコンセプトの問題」ではないのです。

    むしろ「日本型経営」というものが「無駄に増長している」事の証左でもあり、それが日本のITによる生産性向上を阻んでいる大きな要素ではないかとも思えます。

    (NewsPicksの記事「バブル期のIT投資」「いくらIT投資効果が低いと言っても、海外企業の場合は必ずプラスに出る。それが、日本企業に関しては軒並みマイナス。要するに大金をかけてわざわざIT投資しない方が良かったという結果…」)

    つまり「一事が万事」という事で、日本企業(組織)の根源的な文化的な課題かもしれません。


    さて、それはどういった事でしょう?

    日本には「守破離」(しゅはり)というよい言葉があり何かを修める場合には3つのステップが必要であるとされています。


    まずは「守る」
    言われた事、今行われている事を「丁寧に守る」事が第一歩です。

    次に「破る」各プロセスなどを入れ替えたり、それらに入れるパラメーターを『妥当な範囲』と信じられる範囲で変更してみる事です。

    この二つのステップは順序も含めて重要です(離はもういいでしょう、それらの知見から全く新しいものを生み出すことです)。


    工作機械などを入れたときに「まずはマニュアルどおり」に扱う、その後に「改造やマニュアルに無い活用」を考えるというステップが必要です。

    なぜならば「その制度やシステム」を正しく理解しなければ改造や改変でシステム自体を「破壊・無効化」してしまう事も考えられるからです。

    部品や工程の入替といった「変更・改造」は不用意(半可理解)にするべきではありません。

    「一目したところいかにもムダ」でも「あえてその並びにしている事で」機械の故障を抑制したり、動作の信頼性などを担保している場合もあるのです。

    ……と、同時にQWERTYキーボードのように電信時代には意味のある仕組みだったものが、パソコン時代には無意味というものもあります、ここを「理解」して「破離」をする事も必要です。

    八方破れの日本型(?)目標管理制度


    しかし、日本においては目標管理制度は始めから「日本型(?)」に改造して導入されました(マニュアルどおりに使ってもみずに「日本風に(良い方向に)」改造する事ができる発想は『傲慢』と言えるでしょう)。

    その明らかな証拠が「目標管理制度」が「給与と連携している」事です。


    目標管理制度はドラッカーの提唱時からあくまでも「企業と個人が合意する」ための制度です。

    言うなれば個人側が「私はこの仕事をやりたいと思っている」と意思表示するためのものです……企業側は元々「指示命令」や「ノルマ」という形で意見を表明する事ができたのですから。

    そしてこの「企業と個人の目標」は個人と共に「企業側(管理職)も」達成させるために全力を尽くす必要がある「コミット」であると述べられていいます。


    これは本質的に目標管理制度の目標は「企業側との共有した目標」であって「個人の成果を現すもの」ではないということです。

    そして、初期の提唱時(その後の研究論文だったかな?)から「給与と連動させるべきではない」と述べられています(が、すいません本の名前とか忘れました)。


    「考課に使われる目標」という事はこれは「必達目標」にならざるを得ず、多くの企業で『目標管理制度』が単なる「(あえて言うなら少し自己啓発なども掲げられる)ノルマ」になってしまった事からも明らかです。


    「目標管理」は『企業側と従業員のコラボレーションツール』であって「考課(成果測定)」の制度ではありません。

    (もちろんこれらの過ちは本家の米国でも繰り返されている(ヤバイ経営学でも経営陣が目標を結果判定前に見返すというようなことをやっていると指摘されている)のだろう、特に「給与と結び付けてはいけない」なんていう警鐘が鳴らされたのだから推してしるべしである)


    そもそもの提唱理由や「企業側も達成にコミットする」という仕組みを考えれば「考課に使えるはずはない」のです。

    どんな仕組みであれ制度であれ、まずは「型通り守る」事が必要なのです。


    いきなり「破」れば高度な(ましてや企業に導入する以上巨大な)構造物はいともたやすく崩壊してしまうでしょう。


    日本型の目標管理制度


    「日本型の目標管理制度」というものがあるとすれば小山昇氏の提唱する「他人じゃなくて自分の過去と比べて鼓舞する」という制度が上げられます、小山氏はドラッカーを読んでいるとは思えないですが鮮やかで無駄のない「目標管理」になっています(ただしドラッカーが示した自由度はありません)。

    これは「コミュニケーションや『現場指揮官』としての振る舞い」などを学ぶ暇のない日本の管理職には易しい方法です。

    相手との対話で目標を引き出したり、自分達の仕事の意義を説いて会社の期待する仕事を目標に入れてもらうような「ディール」をする必要は無く、相手もわかっている「メインジョブ」の成果を本人の過去と比較して評価し鼓舞するだけでよいからです。


    おそらくドラッカーが提唱した制度は日本ではそのままでは機能しなかったでしょう。
    これは提唱された仕組みに問題があるのではなく、アメリカ人ならごく自然にする「ディール」が日本人には一種の罪悪(ですぎた事を言いすぎだ)だからです。

    「文化の違いを乗り越える工夫」は否定されるべきものではありません。

    しかし「安易な変更」は制度自体を無効化(あるいは『害悪』化)してしまいます。

    84a26ddf.jpg

    このページのトップヘ